赤い金魚が、深夜の信号機を飲み込むとき
こんにちは!前嶋拳人です。
静まり返った午前二時の交差点で、僕は不思議な光景を目にしました。赤信号の灯りの中に、一匹の巨大な金魚が閉じ込められていたのです。金魚は不自由そうに尾びれを動かし、信号機という小さな水槽の中で、僕たちの時間をじっと監視しているようでした。かつて大きな組織でシステムの構築に携わっていた頃、僕にとっての信号は、交通という巨大な回路を制御するための単なるオンとオフのスイッチに過ぎませんでした。赤になれば止まり、青になれば進む。そこには寸分の狂いも、ましてや生き物の気配が入り込む余地など一ミリもなかったのです。
ふと、僕はポケットから一本の古い鉛筆を取り出し、アスファルトの地面に「波紋」という文字を書いてみました。すると、文字が水のように揺れ始め、道路全体が巨大な深い湖へと姿を変えていきました。僕の足元からは無数の泡が立ち上り、都会のビル群は、まるで湖底に沈んだ古代の遺跡のように、静かに青く透き通っていきます。かつて僕が必死に守り抜いてきた納期や仕様、社会的な立場という重い鎧が、ここでは一枚の薄い和紙のように頼りなく、そして自由です。効率を競い合い、誰よりも早く正解に辿り着くことを誇りにしていたあの日々が、遠い異国で聞いた古い民話のように揺らめき、冷たい水の中に溶け込んでいきました。
ふと気づくと、僕の手元にあったはずの鉛筆が、一本の細い釣竿に姿を変えていました。僕はその針を、信号機の中で泳ぐ金魚に向かってそっと投げ入れてみました。すると、金魚が針を飲み込んだ瞬間、街中の信号機が一斉に真っ白な光を放ち、その光の中から、何万もの銀色の蝶が羽ばたいていくのが見えました。論理だけでは決して捉えきれない、誰かの密やかな願いや、夜明け前の予感を動力源とする不思議な変容。僕はその光の渦に身を任せ、自分が書き溜めてきた膨大なコードが、すべて透明な魚の鱗となって剥がれ落ちていくのを眺めていました。
気づけば、金魚の鼓動は、僕自身の心臓の音と重なり合い、一つの巨大な共鳴を生み出していました。皮膚の境界線が湖の水に溶け出し、僕自身もまた、信号機から放たれる光の粒子の一部になっていく。かつて僕が前嶋拳人という名を持ち、誠実な仕事を心がけていたあのデジタルな記憶さえも、深い水の底に吸い込まれていきます。溶けて混ざり合うこの静寂の中で、僕という意識はどこまで拡散していくのか。その問いを立てることさえ、もはや意味をなさないほどに世界は透き通っていました。
信号機がふっと消え、街には見たこともない色の星空が広がりました。僕は、まだ手に持っていた釣竿を、暗い夜の底へと静かに沈めました。それが着底した感触はありませんでしたが、代わりに僕の足元で、小さな渦巻きがいくつも生まれ、それらが銀河のような模様を描き始めました。これは新しい旅の始まりの合図なのか、それとも、すべてが水へと還るための儀式なのか。僕はもう、それを定義するための言葉を持ち合わせていませんでした。ただ、空を泳ぐ金魚の影を見上げながら、自分が透明な水の一部に変わっていく心地よい予感に身を委ねていました。
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